大規模災害が発生した時、よく使われる言葉に「想定外」というものがあります。確かに大規模災害時は、全く考えもつかなかったような事態が起こることはありえますが、実際は「本来想定できたはずのことを、想定していなかっただけ」ということも多々あります。機能しなかった安全対策、マニュアル、装置、etc-
非常時に備えて用意されていたはずのそれらが、なぜ機能しなかったのか? ここではそうした「安全の死角」で起こった事例をご紹介していきます。
レベル7にまで陥った福島原発事故の「想定外」
想定外その1
3月11日、東日本大震災が発生したとき、福島第一原発では、まず地震の揺れで原発構内にある複数の受電施設が全て損壊しました。想定では複数あるいずれかの受電施設が破損しても、残ったもので電力を融通し、外部電源喪失という事態は防げるはずでしたが、結果は外部電源全喪失。これが、福島原発における最初の想定外でした。
想定外その2
福島原発では地震発生後、外部電源が断たれた状態であるため、海水を汲み上げるポンプや、ポンプを動かすための非常用のディーゼル発電機によって原子炉の冷却を行っていました。しかし、そこに巨大津波が襲来します。防波堤は最大6メートルの津波を想定して築かれていましたが、実際に福島原発を襲った津波の高さは15メートルでした。これによりポンプや発電機は冠水して動かなくなったのです。ちなみにポンプはむき出しの状態で設置されていました。
想定外その3
東京電力は当初、原子炉の水位を回復させるため、消火ポンプで淡水を注入していました。けれど水位は回復せず、結果として原子炉の機器を腐食させやすく、注水ノズルが目詰まりするなどのデメリットの多い、海水の注入という選択をせざるを得なくなりました。しかし、これも本来であれば、原発から10キロほど離れた坂下ダムから淡水を取水できる導水管が備えられており、消化ポンプや海水の注水などをせずとも淡水によって水位は確保できるはずでした。それができなかったのは、やはり施設の一部が地震で破損していたからでした。
想定外は、単に想定できることをしていなかっただけ
これらはすべて、それぞれの設備の耐震設計や防水設計、津波対策をしっかりと行なっていれば防げた事態です。
ちなみに、ヨーロッパの原発は、緊急時に原子炉内のガスを外部に放出する場合を想定し、放射性物質を除去するフィルターが排気装置に取り付けられています。これはチェルノブイリの原発事故を教訓に実施された対策です。しかし、日本の原発にはそうしたフィルターはありません。原子炉内のガスは外部放出する事態など起こりえないと考えていたからです。海外では当たり前に想定されていたものが、日本では「起こりえない」と考えてしまったのは、なぜなのか……。 これで、想定外だったから仕方がない、と言われても、誰も納得はできません。
阪神淡路大震災で企業のマニュアルが機能しなかった理由
阪神淡路大震災が起こった当時、関西には「関西で地震は起きない」という根拠のない安全神話がありました。防災マニュアルが策定されていた企業は全体の30.8パーセントに過ぎず、マニュアルがあった企業でも、8割がマニュアルは役に立たなかったといいます。マニュアルが機能しなかった理由として多く挙げられたのは、勤務中の災害しか想定していなかったから、というものです。
阪神淡路大震災の発生は早朝でした。 地震当日、輸送機器メーカーの新明和工業では570人の社員のうち、出社できたのはたったの35人。スポーツ用品メーカー、アシックスでは約1千人の社員のうち、35人しか出社することはできませんでした。移動手段は車、連絡方法は電話を想定していましたが、実際は道路はろくに車が通れず電話も繋がりません。事業継続どころか社員との連絡さえ取れず、安否確認にも長い長い時間が必要でした。机上で作成した災害対策マニュアルは、ことごとく「想定外」となったのです。
完全な災害対策を行っていたはずのヒューレットパッカード社を襲った想定外
1989年のサンフランシスコ・ロマプリータ地震では、高速道路や二階建てのベイブリッジが崩落して、多くの人が犠牲になりました。シリコンバレーの大手コンピューターメーカーであるヒューレットパッカード社も、この地震で大きな損害を受けることになります。ヒューレットパッカード社があるのはアメリカで一番地震危険率が高いとされる地域でした。ゆえに、同社もそれを踏まえて防災対策を進めていました。建物の耐震補強をし、大規模な自家発電設備を設置。その他、様々な対策を行っていました。そして、1989年10月17日17,04、マグニチュード7.1の地震が発生したのです。 地震発生時、ヒューレットパッカード社には、約5,000人の社員が社内にいました。しかし、しっかりとした耐震補強が功を奏し、社屋に倒壊などの被害はなく、社員も全員無事でした。ただ、本来であれば自家発電装置が作動し、直ちに供給されるはずの電気がなぜか供給されず、全米を結んでいたパソコンネットワークはあえなくダウン。その結果、ヒューレットパッカード社は莫大な賠償金を支払うことになりました。
自家発電装置は、なぜ作動しなかったのでしょうか?実は、装置の設置場所に問題があったのです。自家発電装置が設置されていた機械室には、様々な非常用設備が用意されていました。自家発電設備の真上に敷設されていた、消火栓の配管もそのひとつです。大地震によりその配管が破裂し、漏れた大量の水が自家発電装置の制御盤に降り注ぎ降り注いだ結果、自家発電装置は作動しなくなってしまったのでした。安全のための装置が、他の安全対策を破壊する原因となってしまった事例です。同社の安全パトロールチームが、何度も点検した機械室。しかし、機械室の天井に消火栓の配管が敷設されているということに、誰も疑問を抱きませんでした。これは、安全に対するチェック機能には客観性が欠かせないという教訓でもあります。
過去の災害記憶が仇となった北海道南西沖地震
1993年7月12日、北海道南西沖地震が発生しました。奥尻では、住民の多くが10年前の日本海中部地震津波を忘れていませんでした。家屋、船、人命、いずれも大きな被害を受けた大災害だったからです。
しかし、前回の地震では、津波が奥尻に到達したのは地震発生から17分後でした。そのため、まだ幾許かの時間があると考えた人々は、貴重品を持ち出し、車で避難しようとします。しかし、現実は、津波は地震発生からわずか3分後に奥尻を襲いました。引き波は避難しようとする数百人の人々を車もろとも飲み込み、1時間に13回も襲ってきました。特に第二波は10mを超える大きな津波だったと言われています。日本海中部地震発生時、津波が奥尻を襲ったのは17分後だったということを覚えていた人々にとって、それは「想定外」の出来事でした。過去の教訓がかえって仇になってしまったのです。
防災において、過去の教訓はもちろん大切ですが、教訓とされた事象は極めて局地的なものであり、それが全ての災害において通じるものではないということを注意しなくてはなりません。